永平寺への道(On The Road)
2009年3月26日 22:59 - streetcorner (voyage)
俳優で雲水(禅宗の修行僧)の友人Sをガイドに、10人弱の仲間と2月の終わりの週末に永平寺を訪れた。僕としては、友人が3年間を過ごした場所を見学するといったぐらいの心持ちだったのだが、8時間の移動を経て着くなり黙ってカレーを食べさせられ、そのまま40分の坐禅、それから『正法眼蔵』の輪読、、、という具合に、どっこい歴とした「修行合宿」が用意されていた。
禅の修行僧は、作務や法要や禅問答等の時間を除いて、基本的には僧堂と呼ばれる部屋(冷暖房はなく、会話は厳禁)で集団生活を送る。僧堂では1人1畳ほどのスペースを割り当てられ、そこで寝食と1日数時間の坐禅をするのだが、そうした生活の一部始終、一挙手一投足にはすべて決まった所作がある。その所作を、一説には永平寺より厳しいとされる天龍寺で体験するのが「合宿」の中身だったのだ。
※ とにかく面倒臭く、食べていても(応量器飯台)食べている気がせず、眠っていても眠っている気がしなかったが、今にして思えば不思議と癖になりそうなのは、男子高時代の体育会の名残だろうか。いつもに比べて写真が少なく、出来映えも今一つなのは、それどころではなかったからだ。
永平寺に、装飾は似合わない。福井県の山間にある永平寺は、765年前に道元が建立した曹洞宗の総本山で、現在も約250人の雲水が禅の修行に勤しんでいる、平たく言えば禅僧の養成施設だ。禅の修行というと、滝に打たれたり、東屋で人知れず坐禅をしたりといった孤高の苦行(山林修行)を思い浮かべる人が多いのではないかと思うが、後述の通り永平寺はそうしたイメージとは少し異なっていた。
僕の勝手な解釈かもしれないが、禅の修行は精神の直接的な探求ではない。少なくとも近代的自我を精神として思い浮かべるのであれば、そう言える。曹洞宗には、行為は精神に先んじるというような考え方が色濃いようで、個人的な精神(解り易く言えば、私欲)を差し挟む余地がないように、生活の一部始終、一挙手一投足が細部に渡るまで予め定められている。そして、その所作や様式は765年間、変わることがなかった。
所作や様式の習熟と継承、そして、その先にあるもの。「その先にあるもの」を目指すのではなく、所作や様式の習熟と継承の過程そのものが修行であり、悟りである。そうした在り方は、アミニズム(古代宗教)的な世界観からは離れ、歌舞伎役者や蒔絵の絵師などの無形文化財を思い起こさせた。
「私欲を差し挟む余地がない生活」ということからも推察される通り、永平寺の修行にとって重要なキーワードは集団性であり、だから、一人で滝に打たれたりはしない。以前に米子の禅寺で坐らせて頂いたとき、ご住職から「坐禅は一人では出来ない。一人では自分勝手な坐禅になってしまう」と教えられ、友人Sも「一人の部屋でも、永平寺にいる仲間たちを思うことで、なんとか坐禅が出来る」と言っていた。また、永平寺がほぼ完全な年功序列であることも、興味深い。場所としての印象は、甲子園を目指す野球部のグラウンドや宝塚音楽学校に近かった。甲子園は85年、宝塚歌劇団は95年、永平寺は765年。
坐禅をするときには、目の焦点を絞らずに、ぼうっと全体を見る、あるいは捉える。もちろん、坐禅の最中は何も考えないようにするのだが、そうでなくとも(これは試してみればすぐにわかることだが)、ぼうっと見ている状態では、ぼうっとしか考えられない。思考や感覚の集中がないと、欲や意思や想像力が湧かず、したがってアクション(行動)も生まれない。しかし、永平寺が眼下に見える山に登り、山間にぽつりと輝くその建築を眺めると、どうしても、700年前に道元がそれを建てたことは偉大なアクションだったとしか思えない。宗教的要素についてはよく解らないが、坐禅からアクションへ。その飛躍こそが、禅の「何か」なのだと僕は思う。松岡正剛の言う「弱さの逆転」ということだろうか。
帰り道に迂回をして、佛性寺に立ち寄った。佛性寺は、天龍寺のご老師が住職を務め、お招きに与ったので仕方なく訪れたわけだが、福井平野を臨む丘の上に建つ美しい寺だった。九頭竜川からの治水が発達していた福井平野は古くから良好な稲作地帯であり、荘園が形成されていた。佛性寺からの眺めは、東大寺の荘園であったその当時のままなのではないかと思わせるもので、思わず「綺麗だ」と口からこぼれた。
前述の他には、朝課で200人の雲水たちと般若心経を唱えたこと、庭に面した廊下で福山諦法貫首(お顔を存じ上げなかったが、一目でそれと分かった)とすれ違い、その後、伽藍から禅問答(興味深い慣わしだ)が聞こえてきたことなどが、よい思い出となった。
※ 永平寺への旅は、僕にいくつかの探求すべき引っ掛かりを残した。命題と呼ぶにはまだあまりにぼんやりとしているそれらの「まとまり」は、主に身体感覚をめぐるもののようだが、それを書き始めるとかなりの手間を覚悟しなければならないので、詳述は別の機会に委ねる。
H.













