サンタクロースの見解
2008年12月25日 20:05 - cityside (life)
先日、「サンタクロースって何歳まで信じてましたか?」と訊かれた。僕に詳しい友人ならば、僕がその手の質問(「生まれ変われるとしたら何になりたい?」とか「無人島に持って行くとしたら何がいい?」とか)に答えるすべを持っていないことを知っているのだけれど、案の定、その時も僕は上手く答えられずに、しかし僕としては精一杯簡潔に「信じてたこともなかったし、信じてなかったこともなかった。今もそうなんだけど、もっと中間的な心持ちなんじゃないかな。今だって、サンタクロースがいないということは言えないし、でもサンタクロースが自分の家に来るというのは滅多にあることじゃないから、子どもが落胆する顔を見たくない親が、代わりにプレゼントを置いているだけなのかもしれない。」というようなことを言ったのだった。
子どもの頃、僕の家ではクリスマスの朝にベッドから出ると足もとに袋が置いてあって、袋の中にはプラモデルやらぬいぐるみやらオーナメントやらがギッシリと詰まっていた。「ギッシリと」と言っても、今にして思えば精々3品程度だったのだが、当時の僕にとっては取り乱すぐらいに「ギッシリ」だった。こうした風習は小学校の中学年ぐらいまで続いたから、3学年下の弟にしてみれば小学校にあがったとほぼ同時にサンタクロースという道具立てが終わったことになる。すべての子どもがそうであるように、当時の僕もクリスマス・イヴの夜にはプレゼントが置かれるまで起きていようと何度となく試みた。しかし、実際に置かれるところを見たことはなかったし(だから、僕は未だに家族の誰がプレゼントを置いていたのかを知らない)、どうしても見てやろうと思っていたというわけでもなかった気がする。物心がついた頃から、サンタクロースがプレゼントを置いているという想像にはリアリティを感じてなかったけれど、同じように、家族がプレゼントを置いているという想像にも違和感を感じていた。こういう書き方をすると後から考えた大人の物言いのようだが、本当のところ、僕にはサンタクロースがいようといまいと、もっと言えばプレゼントの中身がなんであろうと、そんなことは大して重要ではなかったのだと思う。僕はただ、サンタクロースというストーリーによってもたらされるクリスマスの朝のヴィヴィッドな時間にいつまでも身を置いていたいと思っていた。
サンタクロースがいようがいまいが、そんなものはどちらでもいい。というのは、大人になってからの僕の見解でもある。重要なのは、いる可能性にも、いない可能性にもひらけている世界の芳醇さそのものの中に身を置くことで、それに比べれば、いるとかいないとかという二項対立は言葉尻の問題でしかないのではないか。すべてをそう思えるというわけではないにしても、自分の人生が幸せだろうが不幸だろうが、親子の絆があろうがなかろうが、男女の友情が成立しようがしまいが、目の前の愛が束の間だろうが永遠だろうが、死後の世界が用意されていようがいまいが、そんな閉じられた前提の中の二項対立についての結論をいくら考えたところで世界(自分を含めた外界)への働き掛けを持つことにはつながらず、状況は少しも動かない。それよりも、そんなふうに結論付けることがどうでもよくなるような世の中になればいいのにな、といつもどこかで思っている。
ハッピー,メリー・クリスマス!
H.



