そして、冒険はつづく 〜 山陰の路上にて
2008年6月 3日 08:51 - streetcorner (voyage)
4月の第2週から5月の第1週にかけては、僕にとって失われた1ヶ月となった。プライヴェートでヘヴィーな出来事が続けざまに起り、大事なものが指の隙間からこぼれ落ちて行くような気がして、ただ呆然としていた。そんな中、僕らを乗せたワンボックスカーは、5月9日の午前0時過ぎに町田駅を米子に向けて出発し、同12日午前6時30分に南青山の僕の自室へと戻って来た。
ヨーク大学にいる歴史家Kの松江での学会発表に合わせて、米子に実家がある雲水(修行中の僧侶のことを禅宗ではこう呼ぶらしい)で俳優のSと3人で山陰地方を訪れようというのは半年前からスケジュール帳に書き込んである約束だった。間際になって、折角なので、誰も来ないだろうと思いながらも同行者を募り、歴史家、俳優、医者、アニメーションのバイヤー、書道家、外資系投資銀行、法律事務所員等、職業もジェンダーもばらばらの9人の短い旅がはじまった。
米子には9日の午前11時過ぎに到着した。山陰という言葉の印象からはほど遠い、穏やかでライトな陽射しが降り注ぎ、ゆるやかな風が通り抜ける場所だった。街外れには川が流れ、その川の向こうには王子製紙のコンビナートと伯耆富士と呼ばれる大山が並んで見える。コンビナートは夜になると悪魔の要塞のように怪しく美しく輝き、大山はエクス・アン・プロヴァンスのセント・ヴィクトワールさながらに、街の大抵のところから望むことが出来る。Sの実家にある元々はSの寝室だった部屋の窓からも大山が見え、いくつかの国を渡り歩くようにして育ったSが、ティーンエイジの数年間をこの風景とともに過ごしたのかと思うと、なんとも言えない感慨が押し寄せて来た。
その元々はSの寝室だった部屋は、今はSの父親の工房になっており、1日目はそこでろうけつ染めのレクチャーを受けた。といっても、実際に染めるのはSの父親で、僕らはただ鑞を付けた筆で文字や画を描いていただけなのだけれど、普段は自分の為に手を動かすことの少ない僕にはそれでも充分に楽しかったし、最終的にはちゃんとその人らしい出来栄えになるのだから、手癖というのは不思議なものだ。Sの両親には大変にお世話になった(Sの母親が焼く食パンは絶品だった)。親の有り難味というものを友人の親を介して再認識することもあるのだ。夜は、Sの幼なじみのYさんが若女将を務める海辺の旅館(皆生菊乃家)に宿をとった。
2日目は、飛行機で到着したMを出迎えがてら、恐ろしく安い鮮魚市場で昼食をとった。そして、午後はSの先輩が住職をしている曹洞宗総泉寺を訪れ、座禅堂(右下の座蒲が並んでいる写真がそれだ)で座禅をした。座禅の作法を教えて頂き、警策を打ってもらったのだが、無になるというよりは精神がニュートラルに戻るのが感じられる、実に清々しい体験だった。住職曰く、座禅は数人で行うのが好ましく、1人でする座禅は身勝手なものになり易い、とのことだった。住職に煎れて頂いたコーヒーが美味かった。
この夜は、旅館でKの学会発表のリハーサルが行われた。既に、前日の明け方までKのレジュメに赤を入れていた僕らは、発表の意図を理解していたし、内容はほとんど暗記していたので、ことあるごとに笑い転げていた。一緒に笑うというのは、いいものだ。学会は西洋史学会、Kの発表のタイトルは「投機事業と地主の徳」というもので、ごく大雑把に言うと17世紀イギリスの土地貴族が公共善(public good)をどのように捉えていたか、といったようなことだったのだけれど、偶然にも今回のクルーの9人全員が何らかの形で公共善に意識的で、コミットメントしている人々だったことが面白い。
翌朝、若女将のYさんが、塩野七生の本を読んでいる最中で西洋史にも興味がある、という話をしてくれた。僕は塩野七生の本は読んだことがないけれど、鳥取の海辺の温泉町にしっかりと知的欲求の萌芽があることに僕もKも心の底から喜んだ。僕にも家業があるのでよくわかるが、田舎の中規模な旅館を若くして引き受けようとすることが、どれほど大変なことか。
最終日の11日は、朝から松江の島根大学で行われる学会に向かった。Kは一足先に行っており、僕らは30分も遅刻して着いたのだけれど、それを見越していたKは30分早い時刻を開始時刻として僕らに伝えていたのだった。Kの質疑応答は本人も納得の出来で、そのときには気に留めなかったのだけれど、Kが先行論文等の周辺知識にすすんで触れようとしないのは、彼なりの美学(あるいは性癖)があるらしく、後日、イギリスに戻った彼からのメールを読んで、はっきりとそのことに気付かされた。彼からのメールには、こうあった。「これからも、君らが直面していく、現実のビジネスや日常の豊かさを敏感にすくい取れる、そういう歴史家を目指してやっていくので、これからもよろしく」。また道中、医者をしているYから、内科の癌専門医になるために神戸に移ろうと思う、という報告がなされた。嬉しかった。決意だけは大袈裟なのが、僕らの遣り方なのだ。
学会の後、旅の最後を飾るべく、出雲大社を訪れた。松江から、宍道湖、次いで海沿いの小さな街のいくつかを抜けると、米子のライトな風に神話の国と呼ばれる霊験な光が加わってゆくのが感じられた。視界の開けた平野を走り、森に差しかかったあたりに、他の名の知られた神社からすると拍子抜けするようなシンプルさで出雲大社は建っていた。原型は現在の形よりも高さがあったとされている有名な大社造の苔と緑青に覆われた大屋根が背後の森の深い緑と一体となって、奇妙な地場を形成していた。まるで、妖怪が妖精として現れるような、そんな場所だった。それから、米子に戻った僕らは、川沿いの道を海まで歩いた。
古い親友たちとの久しぶりの密な時間、ライトでゆったりとした米子の空気。海で泳ぎ疲れたときのように、心と身体を取り戻した清々しく恵まれた冒険だった。近年の僕らに爽やかさが欠けているとすれば、祝祭的な時間や自然などの脱社会的時間を束の間のもの、二義的なものとして捉える癖が付きつつあるからだということがわかっていたから、そこを9人全員で修正したことの成果かもしれない。もちろん、3人の主催者がそれぞれにクルーを募ったこともよかった。
12日午前6時30分、南青山の自室に帰り着いた僕は、7時30分に部屋を出てオフィスに向かうまでの約1時間、シャワーを浴びながら出雲大社の前にある老舗旅館の娘である日本を代表する女性ヴォーカリストの曲を口ずさんでいた。
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あの頃のぼくらは 美しく愚かに
愛とか平和を詞(うた)にすれば それで世界が変わると信じてた
12弦ギターの 銀の糸張りかえ
旧い仲間もやって来るさ 後ろの方でひっそり見てくれよ
耳元を時の汽車が 音もなく過ぎる
ぼくの想い出の時計は あの日を差して止まってる
10年はひと色 街影も夢色
変わらないものがあるとしたら 人を愛する魂(こころ)の 人を愛する魂(こころ)の
人を愛する魂(こころ)の五線紙さ
(『五線紙』1980、作詞:松本隆、作曲:阿部恭弘、歌:竹内まりや)
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H.
























