木漏れ日のかたち
2008年3月19日 09:45 - cityside (film)
漏れ日が丸いのは太陽が丸いからだということはご存知だろうか。樹の葉と葉の間がレンズの要領で光を集め、太陽の形を反転させて地面に映しているのだ。だから、光源が星形なら木漏れ日は星形になる、というワークショップを行っているアーティストがいるけれど、それはともかく、今回はフランス映画祭の話をしたい。
前回、6年間通い続けたフランス映画祭に今年は行かなかったということを書いたが、それは会場がパシフィコ横浜から六本木ヒルズに移り、映画祭そのものが変質してしまったことによる。大学でのプレイベントや廊下でのサイン会等の経済合理的でないイベントがカットされ、上映される映画のほとんどは既に配給先が決定しているものになり、出演者にフランス語で質問していた観客は同伴やデートついでのカップルに代わり、不慣れなボランティアスタッフはチケット代分の微笑みを浮かべるプロフェッショナルに取って代わった。つまり、僕は横浜時代の、会期中は付近のホテルのラウンジに美しいブルネットの出演者やパスを首から提げたスタッフが出入りするフランス映画祭が好きだったのだ。もちろん、元々が上出来に過ぎたのかもしれないけれど、しかし少なくとも、1つのビルディングの中で限定された観客だけを相手にしたイベントをフェスティバルとは絶対に呼ばない。もちろん、同じことは渋谷から六本木ヒルズに移った東京国際映画祭にも言えるし、ここ40年はそういったことの繰り返しだったと言われれば確かにそうだし、実際に観客動員はより一層チケットが取り難くなるほどには盛況ではあったのだけれど、だからといって、フェスティバルと名の付く幾ばくかは公益性を含む事業について、一元的で閉じられた経済合理性に則った効果測定を当てはめることが正しいとは思わない。もちろん、僕も事業者であり主催者の端くれとして、公益的な視点を私企業が取り入れることの難しさも、事業成立をさせることの厳しさも身を以て承知しているわけで、そうした事態に何らかの広域的で公益的な戦略を持ち込みバランスさせるのが行政の役割だと考えているのだけれど、実体は往々にしてその逆へと働いている。
先日、ある自治体が商業施設のコンペティションのジャッジメントに使った評価基準(公開資料だ)を見る機会があったのだが、矮小化され閉じられたフローの中での経済合理性のみがクローズアップされていて、こうしたコンサルティングをする研究所も研究所だが、それを丸呑みする自治体も自治体だと憤りを覚えた。そうかと思えば、興行を公平性を欠くとして嫌う自治体が運営する体育館やコンサートホールのほとんどは稼働率がよくても利用者は極めて限定的で波及効果はなく(数億かけた展示ホールは毎日近所のダンス教室でいっぱいだ)、近隣対策、つまり選挙対策としての意味しか持たないというのが最早、全国での通例となっている。
このように、公益的要素のある事業が公益的可能性が閉じられた範囲での効果測定を強いられることによって極端に矮小化していくことは深刻で、助成金や委託事業費に関する書類1つをとってみてもその端々に原因は見て取れるのだけれど、本当に意味のあることは、建築なら建築だけにとどまらない、映画祭なら映画祭だけにとどまらない、とにかく一元的な何かにとどまらない、複層的で測定し難い相互誘発的な波及効果にあるのであって、こんなことを言ったからといって直ちに適切な評価手法が取り入れられたり、あるいはそんなもの自体があるとは思っていないのだけれど、より広い枠組みでの多様で有機的な公益性を考慮すべきだということは常に訴えていくべきだし、実際にも少しずつだが示していきたい。
そんなことはともかくとして、これまでのフランス映画祭には『ギャラクシーにようこそ』『ミドルエイジ協奏曲』『ぼくセザール』『歌え!ジャニス・ジョプリンのように』等々、本当に楽しませてもらった。思わず出演者にサインを求めずにはいられなかった数冊のパンフレットは、映画とともに僕の大切な宝物だ。
H.




