見る側に立って解ること
2008年2月12日 09:03 - cityside (life)
久しぶりに晴れ渡った空に鳥のさえずりなんかが聴こえたもんだから、スーパーマーケットに行き、フライド・ポテトとオムレツとビールとでブランチにした。フライド・ポテトはサラダ油とオリーブオイルのミックスを薄く敷いたフライパンに細切りにしたポテトを入れて、端が焦げ茶色になるまで炒める。炒めるというよりは焼く感覚だ。オムレツは卵3個にマッシュルームとサイコロ状にしたトマトと薄くスライスしたパルミジャーノを入れる。もちろん、ビールはデュベルだが、春になればグロールシュだって申しぶんない。
(木曜日)
商業用ビルディングを建てるプロジェクトの施工会社を決める為の面接を行った。共同事業者であるK社と設計を担当するN社と共に、片手の指の数程の施工会社に対して各1時間の質疑応答を半日かけて実施させて頂き、結果は見積書や提案書や実績表からは伺い知ることが出来なかった差がはっきりと表れた。毎回のようにプロジェクトの事業費はタイトなので、もちろん見積もりは重要なのだけれど、同じくらいに重要なことは他にもある。やり遂げるという企業としての姿勢と責任態勢、それから、厳しい状況下にあっても少しでも意義のあるものをつくるという目に見えない目標を共有しつつ共に向かって行けそうかどうかという担当者の個人的姿勢であり、それがチームによる作業の何よりの楽しみでもある。一方、普段は逆の立場である施工会社としてもとても勉強になった。
(土曜日)
オペラシティのアートギャラリーで開催されている『池田満寿夫・知られざる全貌展』に行ってきた。池田満寿夫の主題と手法の変遷を一望出来るなかなか見応えのある展覧会だ。僕は池田満寿夫の作品には好感を持っているのだが、作品と人柄や時代の空気が切り離せないという点において、彼はやはり芸術的な存在というよりは文化的な存在なのではないかと思い当たり、考えさせられた。芸術家としてはリリカルに過ぎ、知的に過ぎるのではないか。だから、フォルムや色彩を先行させた作品は翻訳的になってしまい、反対に、1960年から66年までのドライポイントに見られるような不確定なフォルムによる詩情は、当時の時代の空気を余す所なく取り込んでおり、それが翻って普遍的な作品世界を創り出しているように思える。ベネチア・ビエンナーレで大賞をとった連作は、満寿夫さんはどう思っていたかはともかくとして、やはり力があった。
(日曜日)
顔見知りが何人か出展しているということもあり、近所のスパイラルガーデンで昼食がてら『武蔵野美術大学・造形学部工芸工業デザイン学科・卒業制作展』を見させて頂いた。職業柄、リクルートという実際上の理由もあって「インダストリアル・インテリア」に最も興味があったわけだけれど、それとは関係なくこの種の若手のグループ展やコンテストは、目の止まる何点かの作品とそれ以外の作品というようにはっきりと分かれることが多い。見る側に立つとよく解るのだが、目に止まる作品というのは、何がやりたいかという思考のプロセスと、それを制作する身体的なプロセスと、出来上がった作品とがはっきりと結び付いているもののことで、そうでなかった作品の作家は「自分の専門領域から何を世界に提案し、どうコミットメントし続けるつもりなのか」ということに立ち返るといいのではないかと思う。(それは、単純にコンセプチュアルであることとは違う。)もちろん、僕自身への言葉でもあるわけだけれどね。
H.




