雪の日とレーモン・ルーセル
2008年1月25日 09:58 - creationside (novel)
「この世界にはすんなり読める本ばかりがあるわけではないという認識は小説を愛する者には特に大事なことだ。」(保坂和志「ずうっと読めなかった『アフリカの印象』」より)
雪が降った今週、僕はやたらと郊外に行く用事が多かった。平塚、王子、湯河原、、、。生活圏を出るということは、いつもとは違う事柄にリアリティを持ったりそれについて考えたりするということでもあるから、いくらでも書くことは貯まっているのだけれど、そうではなくて、今回はその行き帰りの電車の中で読んでいた小説の話をする。
読んでいたのは『ロクス・ソルス』(レーモン・ルーセル著、岡谷公二訳、平凡社ライブラリー)という1914年にフランスで書かれた小説だ。僕は小説について評論しようとは思わないし、また、紹介しだすとそれはそれできりがないので、年末の「読書ノート」のコーナーでまとめて触れればいいやぐらいにしか考えていないのだけれど、
それにしても、この本はちょっと凄い。年に1冊、巡り会うか会わないかといった類いの本なのだ。
何が凄いかと言うと、ルーセルが用いる文体や構造は他のどんな小説にも似ていない。というより、小説の中ではこのような文章を見たことがない、と言った方が正確かもしれない。その文体は小説というよりは、ミュージアムのコレクション目録に付されている長い長い説明書き、あるいは、遊園地の遊具にもしも取り扱い説明書なるものがあるとすればこんな感じかもしれず、あるいはまた、民事訴訟の陳述書や証拠説明書が300年の年月を経たとするならばそれも近いかもしれない。
そして、それに対応した構造も小説というよりはこういった種類の文章に近く、目前に展開する対象物や出来事が遊園地の遊具やミュージアムのコレクションを歩いて回るようにして書かれ、その一つひとつに細部に渡るメカニズムや由来があり、そのまた一つひとつに実に詳細な挿話が入れ子状に組み込まれ、それ等がストーリーらしきストーリーがないままに、しかもほぼ一切の情緒的装飾がないままに、設定としての場に放り出されており、そうした全体からは神話の趣きさえ漂っている。
通常ならば体を為さないだろうこうした構造が可能なのは、度を越した異様なまでの詳細さを備えた奇想天外な設定(「撞槌に似た飛行船が人間の歯を使って作り出すモザイクや、アカ=ミカンスと呼ばれる光り輝く液体でみたされた巨大な水槽の中に浮ぶダントンの首や、特殊な薬を脳に注射されて生き返り、その生涯でもっとも運命的な場面を演じている死者たちの住むガラス張りの建物」)と、途方もなく執拗な描写を畳み掛けることにより、眠っている最中の夢にあるような現前性と緊張感を獲得しているからだろう。カフカは知覚のあり方で夢を連想させるが、ルーセルは設定の緊張感で同じく夢を思わせる。
しかし、あるいはだからこそ、とても読み辛い!文学に2時間で読める澱みのないストーリーを、暗喩や情緒的な装飾を、感傷的で陰鬱的な雰囲気を期待している読者のそれには応えられないだろうけれど、しかし、それら全てを省いた残りのものの中にこそ、映画を映画、音楽を音楽、建築を建築、小説を小説たらしめているものは存在している。だから、ストーリーと装飾的表現と感傷的雰囲気を取り除いたら何も残らない小説は、小説としては何も書かれていないのと同じだ。というのは極論かもしれないけれど、常に意識をしていなければならない重要な芸術観であり、そのことを忘れない為にも、いつかページをめくる日に備えて、皆さんの本棚にルーセルの2冊の長編『ロクス・ソルス』と『アフリカの印象』を並べることをお薦めしたい。
ちなみに、レーモン・ルーセルは、ダダイスムやシュールレアリスムという文脈で、そして彼を好んだアンドレ・ブルトンやミシェル・レリス、マルセル・デュシャン、ミシェル・フーコーといった人々とともに紹介されることが多いようだが、むしろそうした思想や思想から導き出される手法という文脈とは関係なく、恐らくは無自覚に達成されたであろう根源的な新しさこそが、ルーセルの小説が今日でも唯一性を持って輝いている理由なのだ。だからといって、如何にしてこのような小説が書かれたかという興味はぬぐい去り難く、本書で素晴らしい翻訳を手掛けている岡谷公二氏に『レーモン・ルーセルの謎 -- 彼はいかにして或る種の本を書いたか』という著書があることを知り、読んでみようと今さっきアマゾンで注文したところだ。
H.






