冬至と晦日の催事
2008年1月18日 21:28 - creationside (event)
年末の都心では、
ビールの年間消費量の4分の1、シャンパンの年間消費量の2分の1が消費され、
それをそれぞれダースで割った数だけの宴会とパーティーが開かれた。
もちろん僕も、多少なりともそれに貢献したわけだが、
最も楽しみにし、期待に違わない収穫があったのは次の2つの催し物だった。
1つは、12月22日(冬至)に開催された『連塾』。
エディターの松岡正剛さんをはじめとする
連志連衆會によって開かれた「日本という方法」を巡る勉強会で、
草月会館を会場にして、7時間に渡りセッションが行われ、
藤本晴美さんの凝りに凝った演出とともに、
松岡正剛さん、浅葉克己さん、井上鑑さん(!)、植田いつ子さん、
内田繁さん、清水博さん、しりあがり寿さん、西松布咏さん、
金子郁容さん、小堀宗実さん、中道淳さん、福原義春さん等、
そうそうたる顔ぶれがマイクを持たれた。
現行の社会システムからこぼれ落ちているもの、
わかり難いもの、儚く目に見えないものを如何にしたら拾えるか、方法化出来るか、
ということについての材料が、憧れの先人たちによって持ち寄られたわけだが、
なかでも、生命関係学者の清水博さん(東京大学名誉教授)の講義は素晴らしく、
現前性が失われることを承知の上で要約すると、以下のような内容だった。
・今の時代には、一元的でない論理、デュアル・ロジックが必要である。
・生命体をモノではなくコトとした見た場合、
全体そのものとしての生命と個々の細胞の生命という、二重生命として捉えられる。
・そのうちの大きい方、大きい命がある空間を「場」と呼ぶことにする。
・場と個々の生命が相互誘導合致するところが境界であり、
境界が出来ながら、中身が生成する。
・意味は相互誘導合致によって生まれてくるものであり、
西洋における自然科学のように境界を先に仮定したのでは、
意味そのものがどうやって出てくるのかが解らない。
・同じように、変化にともなった時間、二重時間というものがある。
場の時間は未来から来る時間、個体の時間は過去から来る時間、
合致したところが現在である。
柳生新影流の極意は、場の側の時間に立つことにある。
・西田幾多郎も近い内容のことを言っていたのだと思うが、
彼の基本は自己の否定による多様性の実現にある。
しかし、童謡の『冬の夜』にあるあの雰囲気、異質の他者というのではなく、
何かもっと相互に認め合った暖かい雰囲気というものが人間にはあるような気がする。
清水さんの理論は、哲学とも自然科学とも宗教とも文学とも違っていて捉え難く、
慌てて著書を1冊読んだぐらいでは今ひとつ理解しきれてはいないのだが、
とにかく、『冬の夜』を持ち出された時の会場は、
現前性としか言いようのないものに包まれた。
「場を考えていないから、社会的倫理の崩壊、高齢化社会の到来、教育環境、家庭環境、地球環境などの出会いの場の崩壊が人間の価値観に大きな変化を与えている問題 ー 近代的な市場主義経済の枠に収まらない問題 ー を取りあげることはほとんどない。食糧、資源、エネルギーの問題、さらにまた部族間、民族間、宗教間の対立と紛争の解決も観念的で現実から切り離されている。一口にいえば、どう考えても全体が問われているという明白な事実に目をつぶって、部分的な修正で問題を解決しようとしているという印象を受ける。決定的に不足しているのは問題の本質解決への創造的な思考である。」「米国主導の投機的な経済は『群れ合いの場』の上に成り立つ経済であり、経済的活動にとって最も重要な創造性と倫理性の基盤をもっていない見せかけの活動である。それは死 ー 地球的生命(純粋生命)の死 ー を忘れたニヒリズムに咲くあだ花である。この『群れ合いの市場の人々』の集団的エゴイズムは環境との調和の原理を発見するであろうか。それとも地球すべてを買い占めるほどの金を握ったまま地球的生命(純粋生命)の死と運命を共にするのであろうか。」「開かれた思想の実現の上に、学問としての理念を発見しなければならない。新しい思想を創るために、孤独な魂が長い時間をかけておこなう冒険の経験のある人々は現在の産業界や官界には、ほとんどいないのではないだろうか。目に見える結果だけを見て発言をする評論家や、要領よく答を出す世界に生きてきた人々が、気の早い納税者が納得するような『目に見える成果』が生まれたかどうかを評価するシステムをつくると、大学はますます表層的な流行に拘束されて、さらに強く産業と政治に全面的に支配されていく危険性が高い。このような支配の危険性に対して大学の内部から自己創造の変態的変化のドラマが生まれることを心から期待したい。それが未来の世界で活躍する若い人々に対して社会の一部としての大学が負っている大きな責任なのである。」「現在の日本の企業や組織の経営者には、創造的思考の持ち主が少なく、その多くが適応的な思考をする人々である。適応的な思考をする人々の特徴は、周囲に適応することを行動原理とするために、自己否定を通じての変態的創造ができないことである。それは目が内向きになりがちで、自分の周囲の即興劇しか目に入らないからである。これに対して創造的な人に共通な思考パターンは、できる限り広い世界を掴んで、その動きの中に自分自身を位置付けて、その動きを積極的に進めようとする点にある。適応的な思考をする人々の話を聞くと、企業の儲けという狭い自己中心的観点でしか市場を見ていないために、話が皮相的で正解探しに終始して、普遍的な問題意識が語られないから退屈になる。それでも社会が健康なときには、市場の活きは人々の生活を豊かにする方向に向いている。つまり経済活動は限りなく遍在的な純粋生命の大きなドラマに大筋で調和しているために、市場における即興劇は倫理にしたがって動いていくのである。しかし現在のように社会が病気であるときには、『経営は倫理の道にそっていなければならない』とする哲学は依然として正しいというより、この状態でこそもっとも大切な原理になるのである。混沌としたカオスの中でこの原理に基づいて経営を実行するためには、適応的思考はほとんど役に立たない。経営的に求められるのは創造的思考と決断の勇気である。」「企業の経営者や経済評論家の多くが儲け中心の市場と企業コンセプトにとらわれていて、観客がいる観客席に目を向けていない。このような人々の多くは、恐らくさまざまな知識をかじり、狭い市場での儲けのテクニシャンとして優れた能力をもつ人々であるかもしれない。しかし、狭い世界しか見ることができないために、『生きているとはどういうことか』という人間にとって最も基本的で最も重要な問題をあまり深く考えていないのではないかという印象を受ける。そして自分を越えて生命を捉える目と、それを受け入れることができる知能をもっていないために、その大きな生命の活きの中に自分自身の創出を位置づけていく能力 ー これこそが創造的思考能力の本質である ー がまったくといってよいほどない人々が多いのではないかと思う。このような状況から考えて、大きなドラマの中に企業活動を位置づけられないのは当然としても、観客を見ていることから生まれる倫理観もないのは当然である。」(以上、清水博著『場の思想』(東京大学出版会)より)
もう1つは、12月30日(晦日)に、
六本木のライブハウス「ABBEY ROAD」で開催された
紅白を翌日に控えた寺尾聰さんのプライベート・コンサートで、
水割りを片手に、ベースを肩から提げ、
アメリカン・クラフティよろしく
ロックやポップスやAORのスタンダードを自由気侭に唄う寺尾さんは、
映画やTVドラマで見る彼とは違い、ティーンエイジャーそのもののような顔をしていた。
もちろん、袖を通さずにジャケットを羽織り肩をすくめてみる仕草がさまになる
ティーンエイジャーを見たことはないが。
会場では、久しぶりに真野響子さんご一家にお会いするなど、楽しい時間だった。
ちなみに、翌日のNHKでの彼のプレー(井上鑑さんも出ていた)に
今ひとつの違和感を覚えたとすれば、
それは、煙草を止めたうえに酒まで飲まずに調子が良過ぎた所為だろう。
H.




