波とか、星の瞬きとか
2007年12月 6日 13:18 - creationside (novel)
ついさっき、ミーティングの帰りに「21_21 DESIGN SIGHT」の『water展』に寄って、まだ考えが固まっていないのだけれど、いろいろと収穫があった。
先ず、「水」というのは「世界平和」や「エコロジー」と同じで問答無用(大枠への賛同により細部を思考停止にさせる)の社会的キーワードなので、そうしたテーマ設定がずるいと思えなくもないのだけれど、それよりも、僕はずっと以前から「波」や「炎の揺らめき」や「星の瞬き」を前にすると、殆どの人が共通していくらでも見ていられる状態になるのはなんでだろうと不思議でならなくて、そうしたはずしようもないテーマ設定をしたということの方が、よっぽどずるい。
といっても、今回の展示は「波や炎の揺らめきや星の瞬きを前にすると、殆どの人が共通していくらでも見ていられる状態になるのはなんでだろう」ということを考える上で、きっととても役に立った。というのも、展示作品の中には、かなり直接的なやり方で社会的メッセージを表出しているものも多いのだけれど、そうではなくて、「水」にまつわるの要素をいくつかに分解して提示している、例えば、滝の映像の前でイアフォンをかけると滝の音が流れてくるものや、水盤の中で水が揺らめいているものや、歩くと波紋とともに水たまりを歩いている時の音がするもの等もあって、これらは作品の出来不出来とは別に「いつまでも見ていられる状態」を作り出しており、とても興味深かった。水や炎や星を「いつまでも見ていられる状態」にしているのは、どうやら「光」や「音」や「熱(温度)」といった要素が影響しているらしいのだが、そのうちの1つが欠けていても体感する側がそれを補填するということがあるようだ。つまり、滝の映像の前でイアフォンをかけると滝の音が流れてくる作品の前では、なんとなく冷んやりとした空気が流れてくる感じがするといった具合に。というようなことを言うと、星はもともと音も温度もないじゃないかという人がいるかもしれないけれど、星は夜気の温度や湿り気、虫の声といったものとともに見るものであってそこがプラネタリウムと違うのだということが(僕はプラネタリウムでは直ぐに飽きてしまう)、今回の展示を通してぼんやりとだけれどはっきりとわかった。
というあたりまで考えたところで、六本木交差点に面した横断歩道に差し掛かり、そこでヴァージニア・ウルフの『波』と『燈台へ』という2冊の傑作のことを思い出した。どちらの小説とも、波を直接描写している箇所は大してないのだけれど、それでも全編を通して基底音のように波の音が鳴っていて(気配がしていて)、それが社会的な時間、個人に根差した時間とは別の次元の時間の存在を常に感じさせていて、両者の間で読者の意識を行ったり来たりさせている。しかも、不安的にさせるだけでなくてリズムを生んでいる。「いつまでも見ていられる状態」とはつまりそうした状態のことなのではないか!、と思ったところでオフィスに着いてしまったので、正木ゆう子に「水の地球すこしはなれて春の月」という素晴らしい俳句があることを忘れないように書き留めるだけで、続きはまた別の機会にしなくてはならなくなった。
H.




