併存する時間
2007年7月12日 18:03 - cityside (life)
「時間というものは、いくつもの異なった層が、
多重的同時並行的に併存しているようなものだと思うんだ。」等と言うと、
時間を空間化しているとアンリ・ベルクソンのようなことを言う者がいるかと思えば、
ほとんどの人は、はあ、というような顔をする。
そもそも、何か取っ掛かりがありそうな人にしかこんな話をするわけはないので、
僕は、矢継ぎ早にこう続ける。
例えば、新幹線以上のスピードの乗り物で移動した時、着いて暫くは、
空間の移動に時間の移動が追い付いてないような、別の時間に身を置いてるような、
ふわふわとした身体感覚が続くでしょ。
何かの用事で母校に行ったりすると、学校特有の澱みがあって、
そこに流れてる時間は今の自分のそれとは別のもので、もう戻れないと思う一方、
異なった時間の層に1人ずつ、まるでSFのパラレルワールドみたいに、
2人の自分が生きているのではないかというような感覚になったりするでしょ。
ヨーロッパの中世都市を歩いていて、ずっと昔にその場所にいた顔も名前も知らない誰かに、
曖昧で正体不明のシンパシーを覚えたことはないかな?
秋の晴れた日の乱反射する陽光の中で、
いくつもの時間が交錯する感覚に陥ったことはないかな?
もちろん、これらの例が指し示していることは、それぞれに異なるのだが、
この場合、時間の流れ方は一定ではない、あわよくば併存している、ということを
十把一絡げに、半ば強引に納得してもらう。
その中の1つに、「おばあちゃん的時間」というものがある。
僕は、おばあちゃん子だったから、小学校の低学年までは、
学校が終わると大抵は実家の2階の祖母の部屋へ行き、TVのワイドショーや時代劇を見たり、
七厘で干し芋や畳鰯を焼いたり、あるいは庭の草むしりをしたりして過ごした。
実家は都心の住宅地にあるのだけれど、当時はまだ空き地や畑も多く、
梅の木がどうしたとか、庭のアイスクリームの染みに蟻んこが列をつくってるじゃないかとか、
そんなことが会話のほとんどだったような気がするし、そんなふうに僕の時間は流れていた。
お年寄りと子供とは、時間の流れ方が似ていて、
それは、どちらかというと他の家族よりも、梅の木や蟻んこに近い。
そんな社会化されてない時間のことを、僕は勝手に「おばあちゃん的時間」と呼んでいるわけだが、
(随分と安易な気はするが、こう言うと解ってもらえるのだ。)
生物としては、そうした引き延ばされた時間の方が、より自然な時間なのだろうと思う。
社会で生きるということは、社会化された時間に生きるということだ。
そこに違和感があるからといって、そこから外れて、
ひとりで生きてるような顔をして傍観者として過ごすことは、僕はよしとはしないが、
少なくとも、社会化されているものだけが全てであるかのような、
傲慢で広がりに欠ける世界把握の仕方だけは、あってはならない。
都心のほんの僅かな隙間から、
雨上がりの土の匂いが漂ってくるこんな夏の夕暮れには、特にそのことを考える。
H.



